空に映るハンカチ 中編
それからしばらく、僕、桜木ひなたは、その豪邸の女主人であるところの永倉雪子さんのところで学校帰りにティータイムを過ごすのが慣習になってしまった。
言葉にしてみると変な話だ。
お互い赤の他人だったはずの僕らが、毎日のように仲良さげにティータイム。しかも相手は人妻。
僕には、雪子さんの考えてることはちっともわからなかったけれど、とりあえず、雪子さんに会いたい僕は下心もありつつ、いや、下心だけで毎日豪邸に通っていた。
そんなある日のことだった。
海に沈んだこの世界では、雨が降らない。
天候なんてものは存在しない。
『雨が見たいんだ』
そういってあの人は一年前に消えた。
泡になって、パチンと弾けて消えた。
ーーこの世界では、雨が降らない。
そんなことを雪子さんが言い始めた。
「何ですか?その話。ブラックジョークか寓話ですか?」
「私の夫の話」
「はあ!?」
大きな声ははしたないと、たしなめられた。
「・・・ブラックジョークか寓話にしか、やっぱり思えないよね」
「それって、どういう」
どういうことだ。
何の比喩なんだ。
なかなか帰ってこない夫への皮肉か?
「それで、お姉さんの調子はどう?」
あ、話逸らされた。
僕には姉が一人いる。
桜木亜芽。26歳。ニート。
なぜなら、彼女は絶賛病気療養中で、なかなか外出ができないから。
というのは名目で、本当の理由は彼女の頭がイカれちまっているから。
イカれちまっているという表現はおかしいのかもしれないけど。
ある日突然彼女は海の底の生活に耐えられなくなったと言い始めた。
その発言は、昔、海に沈む前だったらおかしくなかったのかもしれない。
沈んだ当初は確かに大勢の人間が「耐えられなくなった」といって発狂していたのを見た。
しかし、人間は慣れる生き物だ。
今更、海の底の生活に耐えられない人なんていない。
不満はあっても。
海の生活に耐えられなくなった彼女は、仕事をやめ、ふわふわと上ばかりを向いている。
地上に戻りたいと言うかのように。
この間なんて海上まで行こうとして、屋上から飛んで落ちた。
当たり前だ。とんだ人魚姫だ。
「この間海上に行こうとして、屋上から飛んだら落ちました」
「え、大丈夫ですか?」
「そんなに高くない屋上だったし、ここが海の底なんでギリギリ」
普段は意識しないが、ここは一応海なだけにある程度は、勿論「人が住めるようにされていない」海程ではないが空中(というか海中)を泳げる。
海から出ようとして、死にかけて、海のおかげで助かる。
これこそ、ブラックジョークか寓話だな。
母なる海よ。
「・・・姉貴、雨を降らせたいんだって言ってました」
なんで、皆そんなに雨が好きなんだろう。
どうして、この世界から飛び出してしまいたいと願ってしまうんだろう。
なんで、
「・・・ひなた君?」
「え、あ、僕・・・すみません、呆けてました」
「・・・それはいいけれど。・・・ねぇ、どうして泣いているの?」
「え、」
僕、泣いてる・・・?
気付くとなんだか頬が濡れてて。
「言いたくないなら良いの。でも、もし辛いことがあるんだったら話して欲しいなぁ、なんて」
私には、話を聞くしかできないけれど。そうなんだか哀しそうに笑う雪子さんがやっぱり好きだなぁ、とか思った。
今は関係ないけど。
「お姉さんのこと?」
優しげにそう聞いてくる雪子さんが、もう、優しすぎて。
「・・・俺、姉貴のこと、すごい好きで、憧れてて」
誰にも話したことのない話をし始めてしまった。
雪子さんは、「他人」なのに。
「”海の底の生活が嫌になった”って言ってふわふわする前の姉貴って、すっげぇカッコいい人で」
「うん」
「バリバリ仕事して、友達もいっぱいいて、男勝りで、”強い女”って感じなのに、優しくて、素直で、明るくてよく笑う人だった」
「そっか」
「僕は姉貴の笑顔が大好きで、姉貴が笑って”大丈夫”って言ってくれたらなんでもできる気がしてた」
「・・・うん」
「・・・姉貴が大好きで、誇らしくて。・・・俺の、憧れの人で」
何にもできない愚図な俺。
頑張って勉強して、頭良くて、すっげえ良い大学言って親喜ばせて。
そんな姉貴に憧れてても、僕はろくに「努力」だってできなくて。
姉貴とは比べ物にならないような微妙な大学行って。
姉貴みたいにしっかりとした人生目標だってなくて。
いつだってヘラヘラてきとーに生きてて。
そんな愚図な僕にだって、姉貴はいっつも優しくて。
そんな姉貴が、大好きだった。
「大好きっ、だったん、で、すっ、僕。でもっ」
気付いたら、涙が止まらなくなっていた。
格好悪い僕。好きな人の前で男のくせに大泣きして。
「姉貴っ、笑わなくなってっ。笑っても、なんかっ、いっつもっ哀し、そうな感じで」
太陽みたいに笑う人だったのに。
明るい姉が「あめ」で、暗い俺が「ひなた」なんて、名前逆にすれば良かったのにね、なんていっつも笑われてたのに。
「愚図な俺は、何にもでき、なくてっ、役立たずで・・・」
突然、雪子さんにだきしめられた。
「・・・ひなた君は、お姉さんが変わってしまったことが悲しいの?今のお姉さんのことが嫌いになっちゃったの?」
「違うっ!僕、僕は・・・!姉貴が、」
大好きな姉貴が、
「笑えなくなっちゃうまで、苦しんでることも気付けなかった・・・!」
「うん」
「姉貴がどんなに、変わってもっ、僕、姉貴のことが大好きっ、で、なのに、苦しんでることも気付けなかった!」
「・・・うん」
雪子さんが背中を撫でてくれる。その手が優しくて、格好悪い僕の涙はますます止まらなくなる。
「僕はっ、役立たずだ・・・!」
「そんなことないよ」
雪子さんに、空色のハンカチで涙をふかれる。
「ひなた君はこんなに優しいんだもん。そんなひなた君は、全然役立たずなんかじゃないよ」
「でも俺っ」
「大丈夫、大丈夫だから。・・・きっと、ひなた君の優しさはお姉さんに届いてる。いつかまた、お姉さんが笑える日が来るよ」
「・・・」
「人間誰だって、疲れてしまうんだもの。こんな世界。だから、少しくらいおかしくなってしまっても、苦しくなって、上手に生きられなくなっても、それは、仕方のないことなのだと、思うの」
その言葉は、まるで雪子さんは自分にも言い聞かせてるみたいで。
「笑えなくなってしまっても、壊れてしまっても、それでもお姉さんがまだ生きていてくれるなら、」
大丈夫だよ。
「ひなた君はただ、お姉さんを見守ってあげていれば良いんだよ。それで、もしお姉さんが助けを求めてくれたら、手を差し出せば良い。それだけで、大丈夫だよ」
「・・・っ!」
「もっと泣いて良いから。その涙は、お姉さんにきっと届くから。・・・だから、大丈夫」
優しい優しい雪子さん。
それからずっと、僕は泣き続けた。
格好悪くても、それでも、この涙は、僕にとって
(・・・姉貴のことが、大好きな証なんだから)
でも、ねぇ、雪子さん。
優しい優しい雪子さんには、誰が手を差し出してくれるの?
いつだって苦しそうで、でも助けを求めない雪子さんは、どうやったら救われるの?
・・・ぼくじゃあ、やっぱり雪子さんは、救えないんですか?
僕はやっぱり、雪子さんが大好きで、どうしようもないみたいだった。
けれど、その想いを絶対に届かないと知っているから。
それでも僕は、雪子さんが誰かに、それはきっと雪子さんの旦那さんに、助けを求めることができる日が来るのを、願うよ。
だから、その時までで良いから、傍にいさせてください。